1.明治までの大正地域

 当区は、大阪市の南西部に位置し、一方を大阪湾に面し区の三方は木津川、尻無川、岩崎運河にかこまれている。その為水運の便がよく、各種工業が集まり臨海工業地帯として発展してきた。
 大正区の土地は、江戸時代以前から続いてきた三軒家、難波島と江戸時代以後木津川、尻無川の河口に開発された新田で大半をなしている。大阪湾がまだ、生駒山脈から千里山丘陵のあたりまで入り込んで「難波江」となっていたこの入り海に、北から淀川、南は大和川が流れ込み、しだいに土砂が推積し上町台地の西方にいくつかの砂州ができた。これらが集まって「難波八十島」と呼ばれ、その中に姫島、九条島、四貫島、難波島があった。このうち、一番最初に開墾された(慶長15年)のが三軒家村となる姫島である。江戸時代は、盛んに新田が開発され、当初は、庄屋を中心に村民が共同で開発されたが、江戸中期になると町人勢力が台頭し「町人請負新田」が多くなる。


 慶長15年(1610)、木津川尻の小島で、姫島(日女島)または丸島を木津村の中村勘助が開発したので、勘助島と呼ばれ三軒家村の始まりである。三軒家の地名は、勘助がこの地を開発した当時、三軒の民家が建てられた事からこの名前が付いたといわれている。
 さらに、三軒家村の南に元和年間(1615−24)に難波村の漁師助右衛門ら三人が移住し、漁業を営み、次第に人家が増えこの地を「三軒家地子(じし)」と呼ばれ、この後、急速に港町として「難波島地子」と共に回船業が発達しおおいににぎわったらしい。また「難波島地子」は、荻島、葦島、葭島、木津島と呼ばれた無人の小島であったが難波村の氏原甚左衛門が地代銀を納めて開墾、難波島地子と呼ばれるようになった。しかしこの地は、木津川尻にあり水路の障害になっていたため、元禄12年(1699)河村瑞賢が島の中央を南北に切り開き、木津川の水を一直線に海に導き島の東を月正島(今の浪速区)西を難波島と称した。
 この頃から、次々と新田が作られていった、その主だったものは、泉尾新田炭屋新田千島新田今木新田平尾新田、中口新田、上田新田、南恩加島新田北恩加島新田小林新田岡田新田千歳新田などである。新田開発は沖合いになるほど困難を増したが、 当地では、金力と実力を備えた代々の岡島嘉平次が幕末にかけ積極的に開拓が進められ南、北恩加島、小林、岡田、千歳新田が作られ、こうして大正地域が形成された。

地子(じし)
公田に対する賃貸料(収穫の十分のニ)または小作に対する地代、年貢を指す。

◆地名と人物
地名
泉尾新田
炭屋新田
千島新田
今木新田
平尾新田
恩加島新田
南恩加島新田
北恩加島新田
小林新田・岡田新田
千歳新田
その他
人物
中村勘助
北村六右衛門
岡島嘉平次