明治に入りそれまで当地は、江戸幕府の直轄地(天領)で「摂津国西成郡」に属し、代官の支配下にあったが、明治維新で大阪府西成郡となった。
明治政府は、当初は、基本方針が定まらず、明治元年5月大阪府と改称され同年6月、大阪府とは別に堺県が置かれ、さらに明治2年1月、摂津県、河内県が設けられ当地は、摂津県の西成郡に属した。だが、同年3月には大阪府に戻る。
そして明治11年に定められた郡区町村編成法に基づいて翌12年2月10日大阪府は四区(東西南北の四区)七郡に改編成され、西成郡が再発足しここに属した。
明治22年4月、市制及び町村制が施行され、大阪市が発足し、三軒家村と三軒家町は合併して三軒家村となる。
この時点で今まで使われていた新田の名称がなくなり、元の三軒家村地域は大字三軒家、三軒家町の地域は大字三軒家町と称し、泉尾などの新田名が大字名で呼ばれた。
(例:川南村大字泉尾)
そして明治30年4月、西成郡の十五か町村が、第一次市域拡張により、大阪市に編入され、当地は西区に属した。三軒家村は三軒家、川南村は川南となり、これにそれぞれ大字をつけた。
(例:西区三軒家大字三軒家町、西区川南大字泉尾)
さらに同33年4月には、新市域に対する町名が改正され、三軒家のうち大字三軒家は三軒家上之町に、大字三軒家町は三軒家下之町になった。
川南の地域は、泉尾町、中口町、難波島町、新千歳町(泉尾の一部を編入)小林町(大字小林と大字岡田が統合され、泉尾の一部を編入)、千島町、東千島町、新炭屋町、南岡島町、平尾町なり、途切れていた新田名が復活、新町名に付けられた。
船着場として早くから開けた三軒家、難波島地区は、明治に入ると、農業のほかに商業、工業がおこり近代化の道をあゆみはじめた。
しかし、他の地域は、明治の中頃まで、のどかな農村風景が続いた。
泉尾新田以南の畑には綿花、麦、野菜類、水田では、水稲が栽培されていたが、明治に入り、スイカ、ネギ、キュウリ、白ウリなど青果物が増えた、特にスイカは、浜寄りの南恩加島、小林新田のものが美味とされ一括新田スイカとして、おもに木津、難波の市に出荷された。
一方、三軒家地域では、江戸末期から明治にかけて回船業や船舶修理用金具の製造業等が盛んになり、木津川の通船をよくする為、明治14年12月、三軒家川に府の「船囲い場」がつくられ、倉庫十棟も建てられた。
だが、水深が浅く、しゅんせつに費用がかかりすぎ、明治22年3月には、閉鎖された。
明治16年7月、三軒家村に大阪紡績が設立された、工場は当初計画されていた動力の水は、設備に膨大な費用がかかるので蒸気に変更されそのため、古くから船着場として発展してきた三軒家村は、動力源の石炭や原料、製品の運搬に有利な海上輸送の便利さが買われ、大阪紡績(紡績機一万五百錘)が進出し、操業を始めた。
同社は、わが国における株式会社による大規模紡績業の最初で、しかも操業まもなく夜業を始めたが、発電機を輸入して電灯をつけ工場全体が不夜城のようで本格的な24時間操業をスタートさせた。
また、明治25年には大火を出し多大の被害を受けたがこれにめげず最新の機械を投入し年々業績を上げた。これにより三軒家地区では、工場周辺に飲食店、呉服店、寄席などが軒をならべにぎわった、難波島の中口新田やその対岸の炭屋新田には、明治16年から20年にかけて藤永田造船所などの造船工場や、レンガ製造工場が次々建ち次第に工業が盛んになっていった。
さらに明治36年2月に日立造船大阪工場の前身に当たる原田造船鉄工所が木津川筋で創業、栗田鉄工所千島工場も同42年に鋳鉄管製造会社として創業、大阪紡績が刺激剤になって、当時の西成郡には、紡績会社が林立し、日清戦争(明治27年〜28年)の頃には、全国総錘数の4割を大阪がしめるようになりさらに、日露戦争(明治37年)のころには、大阪港の輸出額では、綿布が綿糸を抜くようになり「東洋のマンチャスター」と呼ばれるようになった。
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| 大阪紡績(大正区史より) |
(大正区史より) |
大阪紡績会社
明治16年7月、三軒家村に操業を始めた大阪紡績(通称三軒家紡績)は、大正区の近代工業を飛躍的の発展させた出発点であり、大阪の紡績業を日本一にのし上る原動力にもなった。
同社の 創始者は、国立第一銀行頭取の渋沢栄一で、輸入綿糸の巨額なのに驚き、綿防績の新事業を計画、創立するに株主の華族や実業家の大倉喜八郎らの意見を取り入れ、資本金25万円、1万500錘の大工場を地元の藤田伝三郎、松本重太郎らの参加を求めて発起人にし、明治15年に設立した。
工場経営の任に日本人初の紡績の技術をマンチャスターで身に付けた山辺丈夫を据え同年11月第一工場を完成させた。
一号工場は、平屋レンガ造り1,190坪、ミュール16台、1万500錘の設備だったが明治19年に増築された。二号工場は三階レンガ造り876坪一、二号工場合わせて錘数31,320錘となり、三軒家の赤いレンガの三階建てとして有名だった。
続いて同22年、三号工場を増築、四階建てのレンガ造りで3万錘を備え、3工場合わせ61,320錘となった。
これと並行してインド綿の輸入(明治22年)、綿糸の中国向け輸出(同24年)、洋がすりの採用、中国大陸への支店設置、インド商会の日本支店開設など、次々と新機軸をだして業績を伸ばし、資本金も同20年には、120万円、行員も同24年には3970人を擁した。
明治25年12月20日第2工場2階南端のミュール機から火を出し、壊れた窓から風が吹き込んで一度に燃え広がった。
1,2号両工場を焼き、逃げ遅れた女子工員ら96名が焼死、22人が負傷した。特に三階のかすり場の女子工員は、逃げ場を失い階段で折り重なって倒れ多くの若い女性のを奪った。
紡績史上最初の大惨事であった。
大阪紡績は、この大火で一、ニ号工場と31,320錘の紡績機を焼失し多大の損害を受けた。
しかし同社は、最新式のリング精紡機を24,000錘入れ替えた。
そして三代目社長に山辺が就任し、増錘と合併を積極的に進め、大正3年三重紡績と合併して「東洋紡積」となりその頃には、紡績機は15万錘、資本金は、実に500万円に達していた。そして昭和6年に、大阪合同紡績と合併して世界最大の紡績会社に発展した。
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| 大阪紡績(大正区史より) |
一方、三軒家地区より南の泉尾をはじめとする新田地帯は、江戸時代からの農業を、そのまま踏襲し、さほど発展はなく、泉尾新田は、開発当初の誓約どおり、北村一家の所有として土地売買は、一切されなかった。
明治も半ばを過ぎた頃から泉尾の方でも変化が現れてきた、それは、明治33年、十三代目北村六右衛門の創設した合名会社北村銀行が、財界の変動によって、支払い停止に陥り、一年後に破産宣告を受けた。
このときの負債額八十五万円を償却する為、明治36年12月泉尾土地株式会社が設立され、北村家の私有地であった泉尾新田は、会社の所有となった。
会社設立後、これまでの年貢制が廃止され賃貸制となり、田地一反一ヶ月の賃料が五銭で貸し付けられ、明治37年7月には、九百余坪の新田を一坪四円で売却したのを皮切りに土地売買も行われるようになった。
市内では、明治末から大正にかけてたくさんの土地会社が設立された、それは、かつての新田の所有者である地主にとってこれまでの小作料収入より賃貸制のほうがより多くの利益を得られるからであった。
だが当地域の土地会社千島土地、泉尾土地をはじめ、岩田土地、和久土地そして木津川土地、大阪港湾土地、個人所有で木村土地などは、土地の貸与、売買だけでなく、水路を掘り、橋を架け、道路を整備するなど他に類を見ない程、地域の開発、発展に寄与し、また会社、事業所に安く土地を提供し積極的に工場誘致を行い、産業振興に大きな役割を果たした。
------住民の暮らし------
新田内には、井路(井路川)と呼ばれる用水路(幅約5b)が縦横に掘られていた。
住民はこの用水路をかんがい用水、下水排除や船による収穫物や農作物の肥料用運搬路として使っていた。また、田畑の区画割の役目もはたしていた。
大晦日になると井路から大切な船を引き上げ庭で干し小正月頃に、わら火で船底を焼き、腐らぬように手入れをした。
当時の子供たちにとってこの船の中は、格好の遊場になっていた。
1月15日は、「どんど」、6月17日は、その年の豊作を祈る太鼓祭り。
振る舞い酒で元気をつけ、村中を練り歩いて宮入りをするが、他所の太鼓と出会うとよく喧嘩となり、北恩加島と新千歳は、これがもとで、明治から大正にかけ20年間ほど太鼓を出すのを自粛した。
また、7月31日の住吉神社の夏祭りには、木津川二十四浜から、ちょうちんで飾った「ドンドコ船」が繰り出し岡島の浜に勢ぞろいして木津川を上り、住吉神社にお参りした。
また、秋祭りは、木津川沿いの神社で10月に「げんげん祭り」が盛大に行われ、10b以上もある竹ざおの先に「元気永宝」と書いた色ちょうちんをつるし、これを一番竹、二番竹と何本も連ねて掛け声勇ましく村中を音頭を謳いながら練り歩いた。
その時の音頭は「げんげんほう、沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の國みかん船」と歌っていた。その他一般的には、「お伊勢参り」や山上参り」(山上ヶ岳)が年中行事として行われた。
そして、明治43年7月、三軒家と泉尾の境界に、百四十業者が参加して西大阪最初の問屋市場「三泉共同市場」(我々商店街の前身である。)が出来、大阪市の商業史上に先駆的な役割を果たした。
この頃は、まだ北の方は松島方面と陸続きであったが都心へ出るには渡船しかなく工場の寄宿舎には、大勢の女子工員や従業員いたが、日用品の買い入れや農産物の販売などに不便が多かった。そこで三軒家、泉尾の地主、家主ら有志が泉尾新田、三軒家新田の境界一帯の土地をかさ上げし整地して市場を開いた。
大阪府から青果魚類問屋市場の設置許可がおりた。地域の人たちは今までわざわざ川を渡り大阪市内まで買い物に出て行っていたがその必要がなくなった。
さらに尻無川に?橋が架けられると九条場方面からの買い物客が増え、ますます市場は栄えた。
ちなみに、「三泉共同市場」の名称の由来は、三軒家地域と泉尾地域にまたがっていた事から、両地域の頭文字を取り、「三泉」と名がついた。
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写真上書きには、大正元年9 明治天皇崩御喪章付とある。《後列左より坂井熊次郎氏(祖父)、田中藤三郎氏(会長)ほか設立に携わった有力者》
坂井氏所蔵 |
上書きには、大正橋落成記念写真と記されている。
坂井氏所蔵 |
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