大正時代に入り、大正3年に第一次世界大戦が勃発しそれを背景に、当大正地域も新開地として埋立地を中心に重工業地帯として発展、またこれまで、無橋地帯の時代が長く続いたが大正4年に旧大正橋が架設され、その上を市電が通る画期的な時代となった。
一方社会施設にしても市電だけでなく運河、府立泉尾高等女学校、市立泉尾工業をはじめとして各種教育施設、泉尾警察、市民会館、職業紹介所、託児所、浴場、食堂、などあらゆる社会事業の施設が作られ急速に都市としての体裁を整えていった時代でもある。
明治30年に大阪市に編入され、大阪築港第一次修築工事(明治30年〜昭和3年度)が始まり、当地では、木津川、尻無川の河口に大規模な埋め立て地の工事が同年8月から始まり大正15年5月造成が完成された。
そして、鶴町、福町、鶴浜通、船町の新しいまちかできた。 |
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第2次市域拡張(大正14年4月1日)
尚、第1次市域拡張は明治30年4月1日 |
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また南恩加島町と平尾町の地域が拡張されその間、埋立地に大小の工場が進出して市内有数の臨海工業地帯となリ大いに発展した。
大正8年3月この埋立地の町名が万葉集の歌から「鶴」、「船」、その歌の詠者(田辺福麻呂)から「福」一字を取りめられ、福町一、ニ、鶴町一、ニ、三、四丁目、鶴浜通一、ニ、三丁目と船町となった。
そして大正13年5月に三軒家地区が、同14年5月には泉尾地区の町名も改正が行われた。
大正5年3月、築港と木津川を結ぶ木津川運河が完成し、これに即応してセメント、製鉄、造船、科学肥料などの大工場が進出して臨海工業地帯を生み、また、木津川、尻無川沿いには、折からの第一次世界大戦で造船ブームにのって大小造船所が林立し、市内有数の工業地に躍進した。
又、泉尾地区は、同3年から始まった尻無川の改修工事による川筋の整備によって商工業の発展が促され、大正8年、桑畑電気製作所の創業を契機に機械部品を製造する中小工場、下請け工場の建設が進んだ、さらに大正12年6月には、大正運河完成、市内の西長堀や境川から木材業者の移転によって一大木材街を作り上げ、最盛期の昭和7,8年頃には、業者数は、大小あわせておよそ500〜600軒あった。
大正14年4月西区から港区が分区された時、当時は、港区に属する事になった。
そして、昭和7年10月に当地は、港区から独立し、「大正区」となった。
大正区発足当時は、87町あった。 |
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◆大正区の由来
当初、市の助役である池川大次郎氏から原案として「新港区」が提示されが、区民の意向を聞くのが先決と断り、区民に印刷物を作り各戸に配り、多数の意見を募った。
この意見の中には、「三軒家区」や橋にちなんで「大正橋区」があり、大正橋区は、長すぎるので、「大正区」というのが大多数の希望であった。
一方、時の名市長、関市長は、「市が道路名をつけるとき、その時の年号を使って大正通とか昭和通とかすることはあるが、区名としてはふさわしくないとして、「木津川区」、「泉尾区」とか土地の名をつけてはという意見も出たが、最後にはみなが希望するならと、「大正区」の原案に同意した。
当地は、大正時代から昭和初期にあらゆる面で飛躍的に伸びたが、それを如実に表している一つに人口の推移がある。
「泉尾史」によると下表のとおりで、昭和5年10月人口100,933人、
昭和14年には、実に人口152,300人、世帯数32,600世帯を数えた。 |
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| ◆明治以降の人口の推移 |
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明治22年4月 |
明治32年11月 |
大正9年10月 |
大正14年10月 |
昭和5年10月 |
| 三軒家地方 |
3,420人 |
8,607人 |
30,008人 |
27,756人 |
26,809人 |
| 泉尾地方 |
623人 |
701人 |
20,498人 |
22,427人 |
23,751人 |
| その他の地方 |
2,260人 |
3,612人 |
11,540人 |
31,527人 |
50,373人 |
| 合計 |
6,303人 |
12,920人 |
62,046人 |
81,710人 |
100,933人 |
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| ◆大正区の発展に大きな力になったのは、大正橋と市電と運河である |
その大正橋は、市電橋で大正4年に架設され橋の長さは90.62b、幅22.15bで、船の通航を妨げないように橋脚を持たないアーチ橋とし、京大出身の増田工学士の設計による名橋であった。
そして、この橋とそこを通る市電には、それぞれ物語がある。
@ 路線のコース変更
市電が西区境川がら大正橋を通り桜川、湊町、千日前を通り高津までのコースは、当初計画されていなかった。
明治39年特許の第3期線のうち西道頓堀高津線は、東西線の身禊橋(みそぎばし)から真っすぐ東へ、木津川を渡り西道頓堀川の北岸に沿って東へ、さらに道頓堀川の北岸、宗右衛門町を通り堺筋を越え、東横堀川を越えて右折、高津1番丁で左折上六に至るコースであった。このコースは、宗右衛門町を通過するので南の有名芸技らによる陳情もあって大いにもめていたが、それでも市会では可決されていた。
しかし、明治45年1月16日、大阪南の大火が起きる!!
これは、風呂屋の煙突から出る火の粉が難波新地の遊郭の高楼を燃やし、おりからの西の強風にあおられて12時間も燃えた、4,885戸が焼失し、死者4名、重軽傷者170名の大惨事となった。
3年前の北の大火と同様に焼け跡に市電を敷いてはという事に成り、元の計画が変更されることなった。これに伴って、大正橋が架橋されることになる。 |

(市電より) |
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A
大正橋を架ける時近くの大阪瓦斯は九州から石炭を機帆船で運搬していたが橋が出来ると船が通れなくなるとして、親密だった知事を動かし府の方針を変更させ、知事の具申により内務省は、新線の湊町以西を不許可とした。
知事の具申により内務省は、新線の湊町以西を不許可とした。
もともと府、市が協議し申請したもので、府が途中で態度を変えたのである。
一方架橋賛成派は、植村俊平市長をかつぎ出し大正区では、大正橋期成同盟を作り、植村市長が上京するときは同行して陳情し府、市の対立に発展した。
しまいには、大正橋の上を通る市電の特許を国と府から保留され東線(賑橋―上本町六丁目)だけが特許され、植村市長は、明治45年7月、引責辞職する事となった。
これを聞いた市民は激昂し市民大会を開き、ガス会社、府、内務省を激しく批判した。これを契機に特許を渋る府や国も西線(安治川二丁目渡し―賑橋)の特許を与え東線は、大正3年3月に西線は同4年11月にそれぞれ開通した。 |
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大正橋の上を走る市電
(車両は11型客車と思われる)
九条高津線(西線) |
開通間なしの大正橋
(浪速区側から大正橋を撮影したようだ) |
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B
又、設計者の増田工学博士は、大正橋が完成した翌年の大正5年1月、なじみの芸者と四国の道後で心中した。そのためこの心中事件を、大正橋心中と騒がれた。
幻の大浪橋線
大正区の工場地帯には、市南部や堺などからの通勤者が多く、その便宜をはかるため、阪堺線から西道頓堀天王寺線(天王寺西門町―桜川二丁目)を経て松島南恩加島線と連絡する大浪橋線(立葉町―三軒家間1.043`b)の新線が計画され昭和19年3月出願、同年7月に特許を得たが、戦争激化のため実現しないまま、昭和34年6月起業廃止となった。
大阪市内に初めて市電が走ったのは明治36年9月、第1期線の築港桟橋-花園橋(現在の九条)間で、「花園橋-築港桟橋」間の所要時間は約26分前後左右にゆれながら時速11kmで走っていた。当初は、単線運転で10ヶ所停車場があり、それが4区間に分かれていて1区間1銭で全線片道4銭であった。明治41年8月2期線の開通と共に、築港線も全線複線化された。
2期線は、明治41年の東西線(九条中通―末吉橋間)と南北線(梅田―恵比須町間)であった。開通のときは、花電車7両が出て祝賀ムードを盛り上げ、その電車には、ミナミ、キタの選り抜きの芸妓120名が、揃いの電車模様を染め抜いた浴衣を着て乗り込み祝賀ムードを盛り上げた。祝賀会場の大阪ホテルでは、大阪鉄道唱歌(大阪市街電車唱歌)が発表された。 大阪の市電で、特筆すべきは、2階付電車である。
もともと政治家(伊藤博文、山県有朋等)の築港線視察のために作られたようで、製造した汽車会社から市岡車庫へ搬入されたが、使用許可がなかなか得られなかった。
しかしその後増両され、築港線だけでなく2期線の東西線にも走り、夕涼み、観月、魚釣り電車として大いに人気があった。 大正区に初めて市電が走ったのは、前述のように、3期線、九条高津線の岩崎橋-大正橋―日吉橋間で大正4年8月3日です。
そして、4期線松島―南恩加島町線は第一次世界大戦後の好景気で当区南部工業地帯の発展が著しく交通量の増大により計画され、大正橋―永楽橋間が大正7年8月に、永楽橋―木津川運河間が大正7年10月と相次いで開通、同11年10月松島2丁目―大正橋間が完成して全線開通となった。
期外線として鶴町線の鶴町4丁目―大運橋通間(大正9年12月開通)、小林町―鶴町4丁目間(大正11年5月開通)そして昭和2年11月に三軒家―新千歳線がそれぞれ開通した。
大正区だけでなく大阪は、江戸時代から、縦横に運河が作られ水の都と言われるほど水運が発達していた。
明治3年には160橋、明治15年〜22年頃は195橋それが、明治末期から大正にかけて多くの橋が架けられ陸上交通が発達、大正末期には旧市内だけで約450橋、新市域を加えるとなんと1600橋におよんだ昔から大阪は八百八橋と言われるが実際はその倍である。
◆市電橋
明治末期から大正期にかけて市電建設工事の一環として幅の広い耐震、耐火の立派な橋が作られた。その建設費用は、全て市電から上がる収益で償還された。
特にライオンの彫刻で知られる渡辺橋、幾何学的な美しさを誇るアーチ橋の大正橋、初の鉄筋コンクリート僑の岩崎橋などが有名で、市電橋は、1期線の築港諸橋を初めとし、2期線で18僑、3期線42僑、4期線22僑、期外線21僑の計104僑が作られた。
勿論、大正区でも市電僑架がけられた.それは、9橋あり3期線 大正橋、4期線 岩松橋、材木橋、期外線 大運橋、昌運橋、小林橋、栄福橋、千歳橋、嘉平次橋、である。
岩松橋
市電松島南恩加島線建設に伴い、大正11年7月、岩崎運河に架けられた橋で、岩崎橋と同様「鉄筋コンクリート僑」である。長さ66.44b橋幅は、14.55b
大運橋
大正9年12月、千歳運河に架けられた木製橋で、鶴町線用に作られた、老巧化がひどいので昭和33年3月永久橋に架け替えられた。橋の長さは、57.7b、僑幅18bである。
岩崎橋
大正9年12月岩崎運河が開削に伴って大正9年6月、市電九条高津が走った、この橋は、市内で最初の「鉄筋コンクリート僑」となった。
その後昭和40年6月、同49年3月拡幅され、現在長さ75.6b有効幅19.2bである。
尚、大正橋は、たび重なる台風や地盤沈下、また交通量が増した為、昭和44年4月、拡幅するため、下流側に一橋が架けられ、その後古い橋を撤去昭和49年3月に二橋目を架橋、二橋合わせて新大正橋が完成した。長さ79.96b、橋幅41b(歩道幅4b)である。
◆市電道路
大正区は、新田が多く、土地会社が作った幅4から6メートルの狭い道路がほとんどで、本格的な道路がなっかた。それを作ったのが市電道路であった。
始めに、大正4年8月3期線の九条高津線が通る(岩崎 橋―大正橋―日吉橋間)にあたって幅22bの道路が出来、続いて同7年10月松島南恩加島線(大正橋―木津川運河間)も幅22bの道路が完成した。同11年5月には、鶴町線の小林町―大運橋間が幅24bで開通した(注、鶴町4丁目―大運橋間は大正9年12月に開通した)。
そして昭和2年11月三軒家新千歳線(三軒家―新千歳町間)がやはり幅22bで開通し、こうして区内10`bを越える4路線の広い幹線道路が作られた。
この市電道路は、創業時(明治36年)から大正11年度までの20年間で市内を71.5`bもの道路を新設または拡幅した。 |
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(イ)三期線
九条高津線(5.697`b)
安治川二丁目渡し―境川―岩崎橋―大正橋―
[大正4.11.4開通][大正4.8.3開通]
{ ―― 九条高津線 全線昭和44.4.1
日吉橋―湊町―賑橋―上本町六丁目
[大正4.1.8開通][大正3.3.1開通]
廃線 ―――― }
(ロ)四期線
松島南恩加島町線(4.635`b)
松島二丁目―大正橋 ―永楽橋―木津川運河
[大正11.10.15開通][大正7.8.4開通][大正7.10.26開通]
{松島南恩加島線 全線昭和42.8.1廃線}
(ハ)期外線
鶴町線 (3.653`b)
鶴町四丁目―大運橋通
[大正9.12.28開通]
{昭和42.8.1廃線}
小林町―鶴町四丁目
[大正11.5.15開通]
{昭和35.10.10廃線}
(ニ)期外線
三軒家新千歳線(2.754`b)
三軒家―泉尾梅之町三丁目―新千歳町
[昭和2.11.28開通]
{昭和42.8.1廃線}
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二階付電車
(5号車)
創業初期の明治37年から44年まで、主として築港線を走り、他の都市には見られない大阪市電の名物として、魚釣り電車、納涼電車のニックネーム親しまれた。これは、復元車で、昭和28年市電創業50周年記念に復元された。
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11型客車
(30号)
2期線開通後大量に造られ、チンチン電車の愛称で親しまれた。四輪車で運転台前面の窓や出入り扉がない初期の形で、腰細のサイドパネルが昔懐かしい形態を残しています。この車両は、明治45年製の285号車で、大正11年廃車になった。
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501型
(528号)
大阪市電初のボギー車として明治44年登場、市電としては、日本最初の空気ブレーキ付車両で、大小2個の車輪からなる、マキシマムトラクション台車など新しい装備、技術を取り入れた話題の多い車で現存車両中最古車である。
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1601型
(1644号車)
大阪市電最初の鋼鉄製大型低床ボギー車で、台車は大阪市電型と呼ばれる鋳鋼製ウイングバネ式全コイルスプリングという画期的なもので主電動機は、ドイツ製、弱め界磁付で、性能、乗り心地は、本市自慢の電車でした。この車両は、昭和4年製で41年に廃車された。
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3001型
(3050号車)
大阪市電最後の新造車で路面電車開で最高性能車と折り紙付の電車でありました。カム軸式複式制御装置、弾性車輪及び珍しい非常ブレーキ用電磁トラックブレーキを装備したこの車両は、昭和31年に製造され市電全廃の44年3月末日まで阪急東口〜守口間を走っていました。
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| 最初の花園電車 |
花園橋付近を走る2階付電車 |
チンチン電車の愛称で呼ばれて |
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| 市電の切符いろいろ |
2期線開通時の花電車 |
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大阪市の財政を大いに助けた市電は、大正末期から昭和初期頃に市電網をほぼ完成され、1日の利用客は平均80万人に達した。
もう一つの大きな力となったのは、運河で、特に「大正運河」は行政が作ったのではなく私企業が開削した。
大正運河は、千島町から小林町、新千歳町へかけて土地を所有していた芝川一族の千島土地株式会社が大阪木材市場土地株式会社と協力して、木津川、尻無川を結ぶ運河を計画、大正8年から岩田土地も加わって工事を進め大正12年6月完成させた。
これを幹線水路として、各所に15間(27b)〜20間(36b)幅の堀割をつくり、市浜と貯木池を設け、しゅんせつ土砂で低地の土盛りをして道路を整備し木材街を造成した。運河や堀割には、多くの橋が架けられ、大正区は、橋が多いことで有名になったのは、ここからきている。
幹線水路は、延長距離1,963b、幅45bあった。
また、千島土地の記録によると、木材市場土地株式会社へ貸した土地の契約面積は、81,169坪で、運河工事をはじめ堀割などに要した護岸工事の費用は、当時のお金で約30万円かかった。
大正運河に、大正内港化に関連して、港区の国鉄臨海線を大正区の鉄鋼埠頭、第一突堤、第二突堤まで伸ばす計画もあったが、昭和43年4月計画が取りやめとなった。
急速に陸上交通が発達したことにより利用価値が著しく減り、港湾計画や自動車交通緩和のため昭和43年9月着工、泉尾南堀の埋め立てとともに、昭和45年度に完了し、大正12年に出来てから47年間の幕を閉じた。
この埋め立てにより当然多くの橋も姿を消す事になった。
尚、大正地区では、盛土工事に送砂方式をやめ、当時万国博を目指して地下鉄建設が進んでおり、この工事で出来た大量の残土を、盛土に利用すると言う効率のいい方法がとられた。 |
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| 大正運河(開削時) |
大正運河埋め立て工事 |
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いずれも「大正区史」より |
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---余話---
千島町から小林町、新千歳町へかけて土地を所有していた千島土地株式会社は千島、小林地区に運河を作り貯木池を設け、しゅんせつした土砂で低地の土もりをして道路を整備、木材街を造成した。しかし、木材業者の移転が決まるまでに松島遊郭を移す計画があったが千島土地は、反対して買収に応じなかった。
こうして埋め立てられた広大な土地は昭和44年大阪市が発表された計画によいり千島地区に「港の見える丘」を造り、その丘(昭和山)を中心に日本住宅公団(当時)と共同で総合的な町ずくりをし、9階〜15階建ての高層住宅を建てた。また区役所、区民ホール、保健所、水道サービスステーションを収容した総合庁舎、そして体育館やグラウンドが造られ、泉尾地区にあった大正警察署、消防署もこの地に移転された。
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埋め立てられる前の千島地区
昭和33年頃 |
埋め立てられた千島地区
(渦巻き状が昭和山、上3列が高層住
宅で、左に区役所、下に警察署、
消防署が建設された)。 |
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